CASE2.脱サラして裾野市内に農場を開場

移住して裾野で高付加価値農業を営む

40を前に一念発起して脱サラ、種まきさえすれば仕事になる農業でゼロからのスタート!

静岡県富士宮市出身の大塚学さん。三島市内で建設会社の現場監督として15年間のサラリーマン生活を送っていました。もともと自分で商売がしたいとの思いを抱いており、39歳の時、4人目の子どもを授かったことで自分の人生を考える転機が訪れました。「人生設計を考えた時に、借金をしてマイホームを建ててしまったら、人生が決まってしまう…つまらない人生になってしまう…」との思いから一念発起して起業することを決意!

しかし・・・

本当であれば慣れ親しんだ建設土木関係で起業したかった大塚さん。ただ、当時の世間の風は建設土木業界には非常に厳しく冷たいものでした。いろいろな職種を模索する中で、「建設土木関係はお客さんがいないと仕事ができないが、農業であれば種をまけば仕事を作り出すことができる!」と農業で身を立てる決心をします。「祖父が農業を行っていたことも自分の人生に影響を与えたのかも知れませんね」と、大塚さんは当時を思い出します。

39才の時に25年間の借地で裾野市内に農場を開場、なぜ裾野だったのか!?

農業で身を立てる決心をした大塚さん。しかし農業の知識も技術もゼロに近い状態でした。「まずは何を作るか、どういう方法で作るかを決めよう」。大塚さんは技術力がない中でも、ある程度システムで技術が担保される水耕栽培に着目します。そして、トマトやいちご、数ある選択肢の中から選んだ作物は、失敗してもリスクが少なく、一年間に何回転もできる葉物でした。「葉物の水耕栽培で行く」、これで方向性が定まりました。

次に農場の場所探しです。富士、沼津、三島、伊豆の国、御殿場、裾野…農場探しの行脚が始まりました。行政の方と一緒に色々な場所を歩く中で、決め手になったのは3つあると大塚さんは語ります。

「圃場整備の点から言うと他にも適した土地はありました。でも葉物の水耕栽培にはやはり「水」が重要でした。裾野の水は箱根水系で鉄分やミネラルが適度な軟水、水耕栽培では手を加えやすい?素直な水”なんです」。1つ目のポイントは水でした。

2つ目のポイントは富士山を始めとする作物を育てる場所としてのイメージのよさです。そして3つ目の決め手となったのは25年という長期借地の可否と行政の対応だったと大塚さんは言います。「なかなか25年もの長期で土地を貸してくれるところはありませんでした。裾野は農業従事者の高齢化、土地は整備されているが従事者がいないことで危機感を持っていたのか、新規就農者の受け入れに非常に積極的でした。行政の方もとても親身になって一緒に土地を探してくれました。」

地域の人に助けられ、裾野の地で家族そろっての新たな旅立ち

こうして裾野での農場開場が実現しました。そして42歳で裾野に移住。妻、妻の父、子ども4人(小4、小1、年長、2歳)を連れての新たな土地での人生の再スタートです。希望に燃える大塚さん一家を支えたのは、地域の人でした。

「最初はとにかく大変で、夜遅くまで農場で働きました。子どもも小さいから農場に寝かせたりしてね。でも子どもだから泣きますよね。そんな時、近所の人がアイスクリームを持って子どもをあやしに来てくれるんです。とても助かりましたし、嬉しかったですね。」

ある時は、農薬のアドバイスをもらったこともありました。地域のイベントへの出品にも積極的に誘ってくれ、助かったことは1度や2度ではないそうです。大塚さんのハウスの隣地で行われていた「どんど焼き」もハウスが焦げるといけないと場所を移してくれました。

「裾野の人はとにかく親身になってよそ者を受け入れてくれましたね。気にかけてくれるし暖かく迎え入れてくれた。」

富士宮に帰れば当然ホッとする。でも裾野はもう自分にとって地元です。『受け入れられる側』から『受け入れる側』になった今、人と人との繋がり、関係がとても深く、よそ者を受け入れる素地が裾野にはあるのだと大塚さんは語ってくれました。

サラリーマン時代より濃い家族の繋がりが実現

サラリーマン時代とは一変した生活が始まりました。

「とにかく仕事、仕事、仕事の毎日でしたが、家族と過ごす時間は圧倒的に多くなりました。サラリーマン時代は家と職場の往復の毎日で、繁忙期ともなれば会社に泊まり込みです。長男が生まれた時など、1歳になるまでの1年間でお風呂に入れたのはたったの3回。

それが今は、子どもが学校から帰ってくれば両親そろって家か近くの農場にいるし、晩御飯は毎日一緒に食卓を囲む毎日です。」ただ、ご自分が作ったサラダホウレン草とミニセルリで作ったサラダが食卓に並んだのは最初のうちだけだそうで、「今では飽きて誰も食べませんね(笑)」そう笑って答えた大塚さんの笑顔は、家族との充実した裾野ライフを送る喜びにあふれていました。

【ライフスタイル1】親の仕事を子どもに見せる、都会にはない安心感で行う裾野での子育て

移住するに際して、子育ての不安が全くなかったといえば嘘になります。やはり習い事などの選択肢は都会の方が多いのは事実だし、その点は多少気にはなりましたが、それよりも「子どもを育てるにはごちゃごちゃした都会よりも富士山が大きく見える裾野での子育ての方が、子どもにも将来的にプラスになる」と大塚さんは当時を振り返ります。

「私がPTA会長をやっていた時の経験、感触からも、裾野は素直な子が多い!」と大塚さんは言います。

水と一緒でとても素直な裾野っ子。富士山を目の前に見て、素直な水で育つ子どもたちは、やはり大きな心を持った素直な子どもに育つのでしょう。

大塚さんは子育てに関して一つの考えを持っています。

「子どもたちにはとにかく親の仕事を見せたかったんです。建設会社のサラリーマン時代に付き合っていた協力会社の中には、家族でやっているような会社もありました。そんな会社の2代目は親のことをとても尊敬していて、家族で仕事をしている。そんな光景にあこがれていましたね」

農場は自宅の近くです。収穫後の搬送の手伝い、スーパーでの試食会やイベントへの参加・・・。長女が高2となった今でも、子どもたちは手伝いをするそうです。「さすがに父親とおそろいのエプロンでスーパーには行ってくれなくなりましたが(笑)」お子さまは小さいころから農場に顔を出し、大塚さんの仕事を見て成長しています。

【ライフスタイル2】地域や家族との時間が財産。富士山が大きく見える裾野での充実した裾野ライフ!

子どもの学校行事も欠かしたことはありません。土日が休みではないが、平日も含めて昼間に時間をやり繰りしやすい自営業ならではの利点を活用し、参観会、子どもの野球の試合、母親有志との月1回の中学校での図書ボランティアに参加しているそうです。学校行事や地域行事、家族と地域の繋がりを大切に、裾野での時間は流れています。

「やはり、学校行事に参加すると、それなりに子どもたちも嬉しいみたいですね」家族との繋がりだけではなく、裾野では地域の繋がりにも特色があります。「裾野には面白い人が多いんです。大企業がたくさんあって、ちょっと話すとチューリヒに2年間住んでいた人や、中国で仕事をしていた人などと出会うんです。なかなかあることじゃないですよ。そんな人たちの話を聞くのも大きな楽しみの一つですね。」

農場を経営しながら、毎日雄大な富士山を見て家族との密な時間を過ごす。地域の人に助けられ、又、時に助けながら日々を送る。時に出会う人はグローバルな企業人。いくつもの顔を持つ裾野の魅力を大塚さんは私たちに教えてくれました。

第二、第三の「ぶっこ」を裾野に!大塚さんの裾野ライフはまだまだこれから!

最後に、大塚さんの経営する農場「べじた館 ぶっこ」の「ぶっこ」という名前の由来を聞いてみました。

「中学時代の私のあだ名が「ぶっこ」なんです。名前が「まなぶ」、少し小太りだったこともあって(笑)」と笑う大塚さん。農業では、情報もネットワークも農業機器の会社も、静岡では西部に集中しているのだそうです。施設栽培が可能となるような受け入れ態勢を整え、積極的に新規就農者を受け入れる体制づくりの必要性も感じているそうです。

「裾野は水も環境も申し分なく農業のポテンシャルは非常に高いんです。例えば伊豆の国の一大トマト団地のように大々的な施設農業が展開出来れば、仲間も増えて新しい営業展開も可能になるんです。」

新規就農者を始め、裾野に移り住んで起業する新しい仲間を増やすためにも、「自分がもっともっと儲けないといけないんです。」と大塚さんは笑う。

「私がもっと儲けて、裾野ライフを満喫していれば、みんなどんどん入ってきたくなるでしょう(笑)」 最後にそう言って笑った大塚さんですが、その笑顔は今の自分の人生、裾野ライフに一点の迷いも感じていない、清々しい笑顔でした。

大塚さんのインタビューが掲載されたチラシのご紹介